御嶽山噴火について考えた

2014/10/03 中 憲治

「木曾の御嶽さん」でよく知られた御嶽山が水蒸気爆発を起こし、死者まで発生した。
私にとって、御嶽山は懐かしい山である。学生時代の夏休みと秋休みに、縁あって御嶽山の麓にある木曽福島のバス会社でアルバイトをした経験がある。 中部地方には山岳信仰である御嶽講が幾つもあり、御嶽山への参拝の信者団体を王滝口の7 合目「田ノ原」まで送迎するバスの添乗員の仕事である。 御嶽山は一般の登山客にとっては比較的登りやすい 3000m級の山であるが、御嶽講の信者の方々にとっては崇高な山である。 信者の方々と一緒に「田ノ原」から仰ぎ見る御嶽山の山頂は、本当に神々しい雰囲気を持っていた。

時間を見つけて、一度は山頂まで登山してみようと考えていたが、残念ながらその機会は得られなかった。返す返す残念な思い出である。今回の御嶽山噴火のニュースは、それだけに驚きと共に懐かしい記憶を思い起こさせた。新聞や、テレビニュースを見ていて気になることがある。“今回の噴火がなぜ予知できなかったのか” ということが、登山者の安否と共に、必ず主題の一つとなることである。火山噴火予知連絡会の会見あった「100%の予知は考えないでほしい」とのコメントについても、マスコミは釈明とか弁明とかと評している。

リスクについて考える時、「100%あり得ない」「発生する確率は0%である」などの考えはあり得ない。 将来のことは不確実であるからだ。しかし、予知連の先のような当たり前のコメントのついても、釈明とか言い訳などと捉える風潮は、 実に非科学的であり、「100%の安心安全信仰」に陥っているといえる。政府の官房長官は、早々と予知に予算をつける旨表明した。 予知が出来ることなら予算は無いよりある方がいい。しかし、今回の噴火は予算があれば予知できたのか、どのような策を講じれば大きな被害を防ぐことが出来るのか冷静に議論して判断することが求められる。日本人のリスクマネジメントは、発生確率を限りなく低減することを最重要視する。発生を予防できない自然災害については、その予知、予防に最善を尽くすことを重視し、発生時対策を疎かにする傾向があるといわれているが、今回のマスコミの報道もその一端を垣間見せているようで残念である。

東日本大地震に伴う津波への対処で生死を分けた発生時対策(起こった時の対応)の大切さを教訓として学んだはずなのにと思うと切ない気持ちになる。