人芯経営論 ・・・断つ力(断力)

2011/03/16 浅見 淳一

この度の地震により亡くなられた方々に哀悼の意を捧げるとともに、被災者の皆さまに心よりお見舞い申し上げます。一人でも多くの方のご無事を心からお祈りしております。私は宮城県の親戚と連絡がつかずに心配しています。ただただ無事を願うだけです。エッセィは先月、今月に続きますと予告しましたので、予定通りに書きます。勝間和代さんの著書に「断る力」がありました。増大する情報に囲まれている現代人は、自分自身の有意義な時間を作る為に意識的に情報を遮断する能力が必要とされています。それを「断つ力(断力)」と表現しました (ちょっとパクリぽいですが) 。私が意識的に情報を遮断している事例をご紹介します。あくまでも不必要な情報は断つという意味です。

■テレビを断つ
今まではとくに見ていなくてもテレビを点けていました。著作の時間、考える時間、勉強する時間が必要になった時に、基本的にテレビを見ることをやめました。テレビを見ている時間が生産的か有意義かと考えた時に、ほとんどが無駄な時間、浪費している時間だと判断したからです。ちょうど龍馬伝が終わりました。テレビを見る時間を限りなく0にすることにしました。テレビは私にはほとんど空気と同じぐらい日常的に周りにあるものでした。見るのを止めて3カ月以上たちましたが、日常生活で不自由することは何もありませんでした。ワイドショーでは、相変わらず同じ内容を同じ時間に同じような論調で流しています。年末は酔っ払いの喧嘩、今年は韓国のアイドルの解散問題(こちらは少し気になりますが)、大相撲の八百長問題。正直、私の生活の中ではどうでもよい情報、必要のない情報ばかりです。せいぜい電車の中刷り広告で十分です。頭の中に情報をインプットするだけで間違った価値判断になります。必要な情報は新聞やインターネットで必要な分量だけ収集しています。今回の地震の報道も一日中テレビで流しています。必要な情報だとは思いますが、見続けることによって、多くの人々の不安感が高まり、東京のスーパーやコンビニからお米や紙が無くなり、ガソリンスタンドに車が長蛇の列になっているのかもしれません。私にはその光景は違和感があります。こんなメルマガがありました。「不安に振り回されている方は、テレビを消しましょう。ゆっくりと深呼吸し、瞑想して、いつもと変わらぬ生活をし、自分自身を愛と感謝で満たしましょう。まず自分の中に平和を取り戻すことです。」

■インターネットを断つ
インターネットは、私の人生の中では最近の出来事です。あるときに、2~3日インターネットで次から次へと際限なく調べものをしたことがあります。一日が終わった時、妙にエネルギーが吸い取られたような、脱力感を感じました。それ以来、ネットサーフィンは必要なもの以外はしないようにしています。
私が所属していた会社と同様に多くの企業は今一人一台のPCを配布して仕事をしています。朝に出社すると挨拶もそこそこにパソコンの電源を入れて黙々と仕事を始めます。その光景を見ていて、人がパソコンを使っているのでなく、パソコンに人が使われているように見えました。調べ物をする時、仕事をする時にインターネットほど便利な道具はありません。だからこそ使用方法は個人の責任で制御する必要があります。

■SNSを断つ
幾つかSNSには参加して見ましたが、基本的にはSNSは私にはピンときませんでした。SNSは、所詮バーチャルな(疑似的)コミュニケーション、コミュラティです。SNSの交流に熱心な人もイます。本来、人は人とのコミュニケーション、接触を求めます。現実の世界のわずらわしさがないSNSの良さも理解できますが、所詮バーチャです。人は人と人のリアルな接触の中でしか、創造性の発想も癒しもないと感じています。今はSNSも疎遠にしています。

■ゲームを断つ
私はインベーダーゲームの世代です。今のゲームはほとんどしません。いまさら近づかないようにしています。世の中にはネットゲ廃人と言う言葉があります。ひきこもりになり一日中ネットゲームなどにはまっている人を指しています。先日新聞に3日間ゲームをし続けて亡くなった人の記事か出ていました。親が心配してネットを切った結果、不幸な事件が起きたニュースもありました。一日ネットゲームの中にいる人には、現実の世界ではなく、インターネットの中の世界が現実の世界になってしまっています。ネットの世界を切られることは、すべてを否定され、住んでいる世界を奪われたと感じるのでしょう。リアルとバーチャルが逆転する怖さを感じます。

■携帯電話、eメールを断つ
電車の中で周りの人を見回してみると時間帯や乗客やその時の年齢層にもよりますが、多くの人がゲームをしているか、携帯メールをしています。ほとんどの人が窓の外の景色などはみていません。電車がどこを走っていても、その人の世界は携帯の画面です。ビルの街なみでも季節の移り変わりや変化はあります。必要な時以外はもう少し外の景色を見たほうが人は癒されませんか。
今回の地震の連絡にツイツターやSNSが大きな力を発揮しています。支援の輪もインターネットを通じて広がっています。インターネットは現代に必要であり有用であることに異論はありません。だからこそ習慣化してしまい、日常がそれに依存してしまう怖さがあります。必要な情報を選別し、不必要な情報は切断する意志の力と判断力が必要とされています。可処分所得からでた可処分時間という表現があります。自分が使える時間をうみ出す術が必要とされています。

<余談>
私の住んでいる墨田区に終戦後「蟻の町」という場所があったことを偶然に知りました。前にテレビの「知ってるつもり」で「蟻の町のマリア」北原玲子(さとこ)さんを取り上げていたのを思い出しました。豊かになった今の日本からは考えられない、戦争孤児と呼ばれた親がいない子どもたちと、戦地から戻り住むところも仕事もない浮浪者、ルンペンと呼ばれていた人たちが街にあふれていた時代。そんな戦後に廃品回収業を仕事として、公園などに勝手に住居を作って住みはじめた人達の「蟻の町」と呼ばれる集落が全国にありました。北原怜子さんは、墨田公園の言問橋近くにあった蟻の町の子供たちを支援して、その町の人達を愛し、その町の人達の中で28才の若さで亡くなりました。

その北原聡子さんを支え、全国の戦災孤児や浮浪者の救済に飛び回っていたゼノ・ゼブロフスキー修道士こと「ゼノ神父」のことも知りました。ポーランドから日本に布教に来て、親もなく町に打ち捨てられた子供たちを保護しては、日本中を走り回りました。口癖は「セノイソガシクテシヌマナイ、テンゴクイッテカラ、ユックリヤスムヨ」と言って多くの子供達を救済しました。1982年に91才で遠い異国の日本の地で亡くなられました。所属していた協会は長崎にあります。長崎で被爆の体験もしています。その教会の設立者のコルベ神父は、アウシュビッツで他の人の身代りになり聖人となった有名な神父様です。学習研究社の「10人の聖なる人々」には、3人やマザー・テレサも取り上げられています。

その北原玲子さんとゼノ修道士ゆかりの墨田公園の中にあった教会が、潮見に潮見教会として移設していることを知り訪れました。教会におられた年配り女性に尋ねたところ「どうぞお入りください」と言っていただき教会に入れていただきました。教会内には二人の写真以外に当時、墨田公園の教会の上にあつた粗末な十字架も展示してありました。いるだけで清々しくなり、とても心が穏やかになる素敵なエネルギーに満ちた教会でした。
http://tokyo.catholic.jp/text/shokyoku/shiomi.htm

記憶として「忘れても良い記憶」「忘れた方がよい記憶」「忘れてはいけない記憶」があります。多くの記憶は「忘れても良い記憶」だと思います。「忘れた方がよい記憶」は、お釈迦様の教えの3毒「怒り・ねたみ・愚痴」の記憶ではないでしょうか。そして「忘れてはいけない記憶」は、恩や思いやりや感謝の記憶ではないでしょうか。

終戦から60年以上すぎて人々の記憶の中から、日本が貧しかった時のことも、そして、北原玲子さんやゼノ神父の記憶も消え去ってしました。私は、北原玲子さんやゼノ修道士が示してくれた愛や活動は忘れてしまってはいけない記憶だと信じています。

地震の支援の依頼をネットで発信している方々の活動を見ると、多くの人がやさしさや思いやりやいたわりの気持ちで活動されていることに、頭が下がり感謝の気持ちが湧いてきます。まず私は出来ることからスーパーなどの募金箱への献金から始めます。

世界中が日本のために祈ってくれています。Pray for Japan!
悲しくてつらい出来事です。だからこそ日本人の優しさや思いやりや勇気を世界に示す時かもしれません。被災者の皆様ガンバレ。救助活動している方々ガンバレ。生活を護ってくれている人達ガンバレ。そして日本人ガンバレ。