「問題はなにか」マイケル・サンデル教授「究極の選択」より

2011/09/15 中 憲治

先週土曜日(12日)NHK総合テレビで、「『究極の選択』震災復興誰が金を払うのか」と題して、ハーバード大の政治哲学学者であるマイケル・サンデル教授が司会、東京、ボストン・ハーバード大、上海復旦大の学生達が参加する討論番組が放送された。

東日本大震災、東電福島原発事故による被害は、誰に責任があるのか?、だれが復興に伴う費用を負担すべきなのか?をテーマにマイケル・サンデル教授が問題を提起し、それに対して学生達が自分の意見を述べる討論番組であった。
サンデル教授は、幾つかの問題について、倫理的にはだれに責任があるのか、本質的にだれが負担すべきなのかの難問を提起した。
このやり取りの中で、サンデル教授の投げかけた問題に対する東京の学生の回答にボストンや上海の学生とは明らかに異なる特徴がみられた。

それは、サンデル教授の次のような問題提起に対するものだった。「今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故による被害の補償はだれが払うべきものか、東京電力および東京電力の株主、国全体(国民)、東京電力のユーザー、倫理的観点から誰がその償いをすべきか考えてほしい?」との質問に対し、ボストンの学生、上海の学生もそれぞれの考えから意見を述べる中、東京の学生は、誰が被害を補償するとしても現実的には無理がある総合的に考えるべきであるとの意見を多く学生が述べた。

サンデル教授の問題提起は、倫理的にだれがその責任を負うべきと考えるのか?であったにもかかわらず、その答えは問題を現実的にどのように負担すべきかとの問題のすり替えを行っていた。それはたぶん無意識のうちに行われたのだと想定されるが、明らかにサンデル教授の問題に対する回答になっていない。このような問題のすり替えは日本の社会(一番特徴的なのは国会における質疑であるが企業の中でも起こりがちである)ではよく起こり、それはそのまま見過ごされてしまう。倫理的な責任はだれにあるのかと、現実的な解としてだれが負担するのかは、明らかに異なる問題である。問題を正しく定義できないため問題を取り間違えたのか、あるいはこのような本質的な問題に対しては深く思慮出来ないためにあえて問題のすり替えをするのかどちらなのか思慮に値することではある。