小貝川に見る江戸時代初期のプロジェクト

2016/04/14 中 憲治

私の家から、北に2kmの地点に小貝川が流れている。小貝川は栃木県茂木近辺を源流にし、茨城県の西部を鬼怒川とほぼ並行に流れ共に利根川に合流する 1 級河川である。鬼怒川はその名の由来通り、古来より氾濫の多い川であり、小貝川も鬼怒川と同様に氾濫の多発する河川であるが、小貝川は河川域周辺の田畑の灌漑用水の供給元として貴重な存在でもある。そのために、小貝川には関東三大堰と呼ばれる、福岡堰、岡堰、そして豊田堰が築かれている。

岡堰は我が家から4㎞の地点の位置しており、ジョギングやウオーキングでよくいく場所でもある。
岡堰は最初に築かれた江戸時代以降幾度も改修されており、現在では小貝川の中州に、当初に堰のあった地点を「中之島」と呼ばれる小島として保存している。この「中之島」には、この地域の偉人である「間宮林蔵」の銅像が立っている。

間宮林蔵は樺太探検と、間宮海峡を発見した人物として知られているが、彼の生家は、岡堰から西方1kmの伊奈地域(現在のつくばみらい市伊奈)にある。伊奈の地域は、江戸時代に農地開拓が進み、所謂「新田」が幾つも作られた。現在でも、「長渡呂新田」、「山王新田」など○○新田といった地名が幾つも残っている。この新田開発を手掛けたのは伊奈半次郎忠治、江戸幕府から指名され、小貝川周域の新田開発を指揮した江戸時代のプロジェクトマネジャーである。ちなみに、伊奈半次郎忠治は、伊奈代官として知られた伊奈忠次の次男である。伊奈忠次は、徳川家康の腹心であり、関東代官頭として江戸幕府初期に関東地方の新田開発、河川改修そして検地を統率した人物として知られている。埼玉県の伊奈町は、この伊奈忠次の管轄地であり、この名前がついているが、茨城県の伊奈村は伊奈半次郎忠治からその名前がついている。この新田開発プロジェクトと岡堰とは密接な関連があり、そして間宮林蔵とも重要な繋がりを持っている。岡堰は、小貝川の豊富な水を開発された周辺の田畑に灌漑用水として活用する為に作られた河川堰である。江戸時代のビッグプロジェクトともいえる河川改修プロジェクトの一つである。この岡堰プロジェクトに間宮林蔵は15歳の若さ(幼さ)で貢献し、江戸幕府の役人に見いだされ、江戸に出て測量、土木技術を学び、江戸に役人となり、後に派遣された国後島の地で伊能忠敬に出会い、測量技術を高め、樺太半島の測量を手掛けることとなってとされている。

間宮林蔵の樺太探検(樺太半島の測量プロジェクト)のきっかけは、岡堰プロジェクトであり、岡堰プロジェクトが行われた理由は、伊奈地域の新田開発プロジェクトであったといえる。プロジェクトがプロジェクトを生み、そして人を育てる、その人が新たなプロジェクトを生み出す。江戸時代初期のドラマである