企業のドメイン
私が10数年勤務したインテルは、売上げ世界一の半導体メーカーである。しかし、私が入社した1980年代には、そうではなかった。技術開発力でピカイチとはいえ、売上げランキングは世界7位で、規模の面ではダントツの存在ではなかった。それどころか、インテルが惨憺たる負け戦を演じたビジネスがいくつかある。
その、代表がDRAM(書き込み読み出し可能メモリー)だ。DRAMを開発し市場にはじめて投入したのはインテルである。DRAM市場の黎明期に、インテルは自社開発したDRAMの出荷量の増大をめざし同業他社に生産を委託した。日本でも数社が依託生産を引き受けてくれた。すると面白いことが起こった。インテルにライセンス料を払っている日本メーカーのDRAMの売値の方がインテルより安く、インテルはみずからが創出したDRAM市場を奪われることになったのである。技術開発力では一頭地を抜くインテルであったが、量産技術では日本メーカーの後塵を拝する位置にいたのである。ここでインテルの軌道修正は(今にして思えば)鮮やかだった。インテル経営陣が判断の拠り所にしたのは、ドラッカーの問いである。すなわち、「仮にこのビジネスを手がけていなかったとしたら、このビジネスに新たに参入しようと思うか?」インテル経営陣はこの問いに答える形で、DRAM撤退を決めた。それと同に、市場の伸びが期待できるマイクロプロセッサーに経営資源を集中させた。この決断が、インテルが今日の地位を築く転換点となったのである。
DRAMほど広く知られていないが、インテルにはもうひとつ貴重な負け戦がある。クオ-ツ時計だ。クオ-ツ時計に使うIC(集積回路)を生産し、時計メーカーに売り込むビジネスを考えたのだ。そしてこれも、惨憺たる負け戦に終わった。インテルの日本の古手社員の中には、「セイコーに売り込んだけどうまくいかなかった」と当時を振り返る営業マンがいる。
しかしながら、こういう負け戦があるからといって、だからやらないほうがましだ、ということにはならない。個人や企業が社会や市場で活躍できるかどうかは、力を尽くすという“内から働きかける力”と、それを受け入れようという“外からの受容の力”が“絶に結びつく”ことがカギとなる。そして、この絶妙な結びつきが起きるかどうかを知るには、やってみなければわからない。
”『プロジェクトマネジメント学会誌』より転載”