数年前から名古屋での仕事の度に、旧東海道を歩いている。これまで、熱田の宮の渡しから歩きはじめ、小田原までは来ているが、今回は残された京都から桑名までの約 120 ㎞を歩いた。旧東海道にはいくつかの難所がある。江戸から進めば、箱根峠、小夜の中山峠、そして鈴鹿峠である。大井川や天竜川なども昔はある意味難所だったかもしれないが、七里の渡し同様、現在それを経験することは出来ない。私の旧東海道完歩プロジェクトにおいては、この難所の 3 つの峠越えと大井川、天竜川を歩いて渡ることをマイルストーンに設定した。
旧東海道完歩プロジェクトは、京都から東京へ下るルートにこだわった。旧東海道を歩くほとんどの人は東京の日本橋をスタートして、京三条大橋を目指すことをしている。しかし、私は当時の都である京から江戸に下ることに拘った。
京の三条大橋を朝 7 時にスタート。昔の人は最初の宿を滋賀県石部宿(草津の次の宿)として、約 37 ㎞を一気に歩いていたといわれている。そこで、私の初日の目標は石部宿とした。京~石部の間は難所はなく、比較的フラットなルートであるが当時(江戸時代)の人は健脚だったと思われる。「お江戸日本橋七つ立ち」の歌にもある通り、当時の人は朝 4 時には宿を発っていたと考えられるが、そうだとすると 1 日 14~15 時間は歩いていたのではないかと想定される。
2 日目はマイルストーンの鈴鹿峠超え。この日は、朝から雨、そして風強し。おまけに鈴鹿おろしというのか真正面(東)から吹き付けてくる。鈴鹿峠に差し掛かるころには霧に覆われてきた。峠越えの下りは石畳の道。雨に濡れてつるつると滑る。「鈴鹿馬子唄」に次のような一節がある。「坂は、てるてる、鈴鹿はくもる、あいの土山雨が降る・・・」。坂とは、鈴鹿峠を越えた坂下の宿をさす。坂下では晴れていたのに、鈴鹿峠では曇る。峠を越えた土山宿では雨になる。と鈴鹿峠を挟んで天気の変化の激しいことを唄った馬子唄だ。私の場合は、「坂はつるつる、鈴鹿は霞む、あいの土山雨風強し」といった感じであった。
鈴鹿峠も土山側(京都側)から越えれば、それほど急な坂ではない。鈴鹿峠から坂下への道は急峻な坂道となる。これは、箱根峠も同様である。当時の人にとって見れば、足には草鞋、道も今ほどは整備されてなく、これはまるで「天子様の京へはそう簡単には行かれないぞ!」と覚悟を迫っているようなかんじである。旧東海道を京側から歩いて、もう一つ気付いたことがある。それは、旧東海道の各所に設けられた案内板や道標のほとんどが、東京から歩く人用に設置されており、京から歩く人にはわかりづらくなっていることである。これは、京都~桑名間のみならず、今まで歩いて熱田~小田原間に言える事であり、今の人が東京中心主義に染まっているのか、多くの人が東京から京を目指して歩くために、多数を意識して良しとしているのか、その理由を知りたいし、また江戸時代のころはどうだったのかも知りたいと思えた。