福沢の「適度な図々しさ」

2012/02/15 中嶋 秀隆

九州出張を機に大分県中津を訪れた。プロジェクトマネジメントの関係者に中津出身の方が2人おられるが、かれかから、同地には福沢諭吉の「独立自尊」を大書した碑が立っている。幼少の時期から毎日のようにその碑を見て育ち、少なからぬ影響を受けている、と伺っていたからである。

JR中津駅に降り立つとと、真正面に福沢の銅像が佇立ししている。さっそく観光自転車を借りて、福沢の旧居に行ってみた。旧居のすぐ脇に稲荷がある。少年の福沢が、神体のを開けて中の石を別の石ころと入れ替えておいた。すると初午なって、周りの人がのぼりを立て、太鼓をたたき、お神酒をあげて拝んでいる。それを福沢が「ばかめ」とひとり嬉しがっていたという稲荷だ(『福翁自伝』)。

反対側に記念館が併設されていて、福沢ゆかりの展示物が多く見られる。ひとつの「願書」に目を奪われた。大坂の適塾に留学していた福沢は、チフスに罹って中津に一時帰京している。再度大坂に出かける際、中津藩庁に留学の願書を提出した。その中で、目的を「砲術」の修行に出かけると書いている。適塾の緒方洪庵は医者であるにもかかわらず、である。展示の説明では、「蘭学」のための留学は中津で前例がなく、認められなかったからだという。もし福沢が「蘭学」の勉学のためと生真面目に書いて、留学を拒否されていとしたら、『学問のすすめ』をはじめとする、福沢の啓蒙活動は、かくも広汎・多大な影響力を持ったなかただろう。 積極性とは「適度な図々しさ」であると、本欄で書いた(2011年6月15日)が、「砲術」の修行と申請したのも、福沢の「適度な図々しさ」といえるかもしれない。

以 上